久木興治郎は1908年8月2日、犬上郡亀山村太堂(現彦根市太堂町)に生まれ、愛知郡愛知川町に移住。県立八日市中学校を経て大阪外国語学校に入学、社研、無産青年同盟に加入して活動、1926年同校を放校された。
その後、日本共産青年同盟に加盟、1927年9月に日本共産党に入党、共青関西地方委員会委員・書記として活躍。軍隊工作を担当し、兵士向けの反戦ビラや『兵卒新聞』を発行、3・15事件で検挙され、懲役5年の判決を受けた。
控訴審では解党主義に反対してたたかい、非転向をつらぬき19歳から25歳までの青春を獄中で耐えた。
この間、看守と口をきかず、弾圧に抗議し続けた。
1934年3月、滋賀刑務所を出獄。郷単の愛知川町で療養した後、1935年10月大阪に出たが、特高につきまとわれた。後に、教育通信社に就職したが、1937年7月24日大川で遊泳中、溺死した。
興治郎は愛知川町の久木家の墓地に葬られたが、2004年、東本願寺東大谷墓地に改葬された。戒名は「釋一進」。ただ進だけ。誰が付けたか、興治郎にふさわしい戒名だ。
墓には息子の活動を見守ってきた父尚治郎、母たね、興治郎の活動を世に紹介した弟丕(ひろし)が共に眠っている。
(西田清・滋賀県本部事務局長)
2011年6月15日不屈中央版(毎月!5日発行)No 444 (5)