桑原英武名誉会長を偲ぶ会 124名が出席
治安維持法国賠同盟中央本部名誉会長、全日本民主医療連合会顧問、日本共産党大阪府委員会顧問など各分野で活躍された桑原英武先生は、今年5月9日、100歳の天寿を全うされました。
11月23日大阪市内で『桑原英武先生を偲ぶ会』が開かれ、全国各地から124名が出席しました。
完成したばかりの島田耕監督による桑原先生の戦前・戦中・戦後の偉大な足跡を描いたドキュメンタリー映画
『ある治安維持法犠牲者の100年』―民衆とともに歩んだ医師桑原英武―を観賞。
「戦前の第三高等学校在学半ばより、いきなり日本の民主化の為に、地下活動に突き進まれ、2回に及ぶ投獄にもかかわらず、初志を曲げず戦後の闘いへと貫かれた、実に見事な生涯。それぞれの先生像を語って頂き、先生を偲んでもらえば」と近藤慧偲ぶ会呼びかけ人代表が開会のあいさつ。全日本民医連、日本共産党、全国保険医団体連合会、ヘルスコープおおさか病院、旧上二病院職員などの代表がそれぞれあいさつ、スピーチを行いました。
治安維持法国賠同盟は、中央本部針谷事務局長、宮崎県、岡山県、徳島県、近畿各県から代表が参加。柳河瀬会長、増本副会長、岡本京都府本部会長が在りし日の桑原先生の思い出を語りました。
出席された人たちは懐かしい面々に同窓会さながら、楽しく写真を撮り、飲んで食べて賑やかな偲ぶ会となりました。
日系カナダ人の戦後補償を学ぶ
9月20~28日、バンクーバーを一行8人で旅しました。
カナダの日系人に対する補償のたたかいを学びたい、山本宣治、大石誠之助の足跡を偲びたいという思いに駆られ、わたしの小論文をバンクーバーの雑誌に載せていただいたことがきっかけでした。
アジア太平洋戦争が始まったとき、カナダ西海岸に在住していた日系人は、財産を没収され強制収容所に収容されました。一九八八年、カナダ政府は大戦中の日系人に対する処遇に謝罪し、ひとり2万1000ドルの補償を支払い、日系コミュニティ基金を創設するという戦後補償を行いました。
コミュニティ基金で建設された日系センターは広い講堂を備え、大小の部屋があるなかなか大きな建物で、カナダ日系博物館と老人ホーム、ケア付き老人住宅が併設されています。戦争中に日系人のコミュニティを壊した補償でコミュニティセンターが作られているのです。
わたしたちは日系センターで鹿毛さんから戦後補償のお話を聞きビデオを見せていただきました。40年にわたるたたかいが解決に向かったのは、人権の問題が中心に据えられ、若い世代がたたかいの先頭に立ったときです。これは、わたしたちのたたかいの方向を示しています。
バンクーバー九条の会の皆さんと交流しました。会長の落合さんはじめ10人ほどが参加いただき、お互いの自己紹介しながらの懇談です。
落合会長は「カナダ憲法に九条の条項を盛り込ませようという運動が始まっていり」と紹介されていました。海外で作られている「九条の会」は、やはりそれぞれの国で同様の運動を起こしています。
わたしは国連人権理事会で「平和についての権利」を国連で決議するための準備が行なわれており、それを実現させるための運動を各国で起こそうとしていることを紹介して、ともにたたかおうと訴えました。
山本宣治が劣悪な労働条件の中で鮭漁に従事したり、鮭缶詰工場で働いていたスティーブストンの街を訪ねました。
大逆事件で死刑となった大石誠之助が、アメリカで医学を学び、帰国する前にしばらく滞在して治療にあたった街でもあります。
昔の鮭缶詰工場の姿をとどめた博物館があり、日本人労働者が共同生活した小屋が再現されています。住民運動によってカナダ公園省が所有管理する国定公園として整備されているのです。
山本宣治が学んだブリタニアン高校も、山宣が学んだときの校舎が100年を超える歴史を刻んでいました。
バンクーバー最後の夜は、ラテンアメリカからの政治亡命者たちとの懇親交流で、最後には腕を組みあい、体を寄せ合い、ヴェンセレーモスの大合唱で盛り上がりました。
人との交流の旅でした。
(文/柳河瀬精会長)
(撮影/I・Nさん 題/魔法色のメディスン・レイク カナダ・ジャスパー)
侵略戦争に反対し、獄死した反戦兵士 阪口喜一郎
顕彰碑建設30周年
1930年代初頭、日本帝国主義の中国侵略が本格化する中、あの弾圧・監視の厳しい海軍艦船の中で、反戦平和を呼び掛ける機関紙「聳ゆるマスト」を、6号まで、30~100部も発行・配布し、尊い命をささげた英雄的な活動は今では広く知られていることと思います。
しかし、喜一郎の生地・和泉市黒鳥でその活動が知られるようになったのは、60年代に入った繊維労働者の闘いの中で、労務のある人から「反戦活動して殺されたあんたらの先輩や」と写真を渡されたことがきっかけでした。その後、党史の調査・編纂や山岸一章さんの献身的な努力で出版された「聳ゆるマスト」などで、全国的にもかなり正確な人柄や活動内容が知られるようになりました。こうした中で、地元でも「顕彰碑建設委員会」が作られ、1,982年12月、今では桜の名所ともなっている黒鳥山公園の正門前に「顕彰碑」が建設されたのです。今年は30周年の記念の年を迎えます。
建設に携わった25名の委員のうち20名の方々がすでに他界されていることに加えて、昨今の改憲策動や尖閣列島問題をめぐる民主・自民などの言動を目の当たりにする時、新たな体制で「いつか来た道を歩ませてはならない」取り組みの強化が求められていると痛感するのです。
そんな思いを込めて、その取り組みの一翼を担う顕彰活動の強化のきっかけにと、喜一郎さんの活動された呉の地にその足跡を訪ねるバスツアーを計画しました。趣旨ご理解の上、積極的なご協力をよろしくお願いします。
(顕彰碑を守る会事務局 古久保氏)
※阪口喜一郎は、1902年1月、現在の和泉市に生まれ、高等小学校を卒業後、呉海兵団に入団。1930年、海軍の中で社会科学研究会を組織し、兵営内外の反戦・抵抗運動の中心的役割を果たしました。
1931年9月の満州事変、翌年1月の上海事件を受けた、海軍陸戦隊2800名の上海派兵決定に対し、「中国出兵反対!水兵の待遇改善をせよ!」を掲げて、1932年2月に反戦機関紙「聳ゆるマスト」を創刊。6号まで作成・配布されました。
1932年8月に野村梅子とともに上京し、党中央軍事部の新たな任務に就き、海軍横須賀基地での組織など活動しますが、その軍事部には、後に松本清張の小説、「日本の黒い霧」の「スパイMの謀略」であきらにされたスパイ飯塚が存在し、11月15日に、東京御徒町で上野憲兵隊に逮捕され、治安維持法違反で、広島・呉憲兵分隊にひきわたされました。
妻の梅子とともに呉に移送され、未決のまま広島拘置所に拘留。平原甚松は、1933年4月26日に治安維持法違反で起訴されましたが、喜一郎は、拷問に屈せず、未決400日の末、広島刑務所で獄死しました。
抵抗の群像(不屈中央版2012/10/15掲載)
保健婦・社会運動家
棧敷よし子
棧敷よし子さんからのメッセージ
「治安維持法とわたし」桑原英武著について『棧敷よし子さんの出逢いに注目』を掲載させていただいた。これを契機に棧敷さんのことをより知りたくて、その自叙伝の「ある保健婦の昭和史――永遠なる青春」(青春社1975年発行)を読みたくなった。元・阪大医学部教授の丸山博氏(1909~1996)は、序文で「この本を読んで涙しない人は、人でなしだと私は思います。この本を読んで奮い立たないようでしたら、その人はまことに意気地なしの人だと私は思います。」と冷静な科学者の立場を超えて、激賞されているのですからなおさらです。
大阪府本部の事務所を訪ねて、本書を捜していただいたが見つからず、治安維持同盟のF氏やM氏にも聞きあわせたが、持ち合わせてないという。こんな地味な本、古本屋にもないだろうとは思ったが、ネットで検索したら、金沢市の古書店で初版本を発見した。謹呈者名入りとのことで、定価750円は、送料、振り込み代金合わせて、4410円もしたが、何等躊躇はしなかった。
ネット検索の中で「大阪春秋」108・109号(平成14年12月発行)に、泉耿子さんが「社会運動家・棧敷よし子さん」を掲載されていることを知り、堺中央図書館を訪ねた。そのコピーを取って、念のため館内にある蔵書を検索すると、第四刷(1986年版)の本書があるのを確認し、借り受け、その夜一気に読破してしまった。そのあとがきの中で、棧敷さんは83歳になったことや、同じ青春社から「草の根――永遠なる生命力」を近く発行することになっているので、ぜひ一読賜りたいと思います。と結んでいる。その書籍が発行されているのかどうか、「青春社」や発行所、印刷、製本社等をも捜し及んだが、破産したのだろうか、いずれも消息を把握することができなかった。
古書店より初版本が届いた。表紙裏に謹呈者の冨士子様、麻利子様に宛てて、5行121文字を寄せている。それは私達へのメッセージでもある。1975年12月6日、亡き母上生誕の日、棧敷よし子の署名がある。
(大阪山宣会 浜田氏・2007/11/15大阪版不屈掲載)
治安維持法国賠同盟大阪府本部が署名宣伝行動
柳河瀬会長先頭に15名が参加
10月30日、大阪府立体育館で志位和夫委員長を迎えて日本共産党大演説会が開かれました。
私たちは主催者の了解を得て、会場前で署名宣伝行動を行いました。開会1時間前の午後5時に集合し黄色の幟旗をたて、黄色のゼッケンをつけて意気高くとりくみました。
柳河瀬会長を先頭に15名の役員が奮闘し、651筆の署名、1名の新入会の成果を収め、2100円の募金が寄せられました。