新宮市(観光協会)ホームページ
「大逆事件と大石誠之助」の説明を紹介
速玉大社駐車場から大橋通りに向かって船町を歩くと、スギウラ印刷さんの前に明治末の“大逆事件”に連座され犠牲となった「大石誠之助宅跡」の小さな標石がある。
大逆事件顕彰碑
大逆事件顕彰碑文
そもそも大逆事件とは、明治43年(1,910年)、多数の社会主義者・無政府主義者らが、明治天皇の暗殺容疑で検挙され、大逆罪の罪により24名が死刑または無期懲役に処せられた事件。
この地域からは「新宮(紀州)グループ」として大石誠之助(新宮・死刑)、成石平四郎(請川・死刑)、高木顕明(新宮・無期懲役)、峯尾節堂(新宮・無期懲役)、崎久保誓一(三重県市木・無期懲役)、成石勘三郎(請川・無期懲役)の6人がでっち上げの容疑で犠牲になった。
*大逆罪(昭和22年刑法改正で廃止)=刑法73条:天皇(皇族)ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加エントシタル者ハ死刑二処ス
当時、日本は明治維新により資本主義時代に入り、天皇が国家主権をにぎる君主制の中、「富国強兵」軍国主義の道を進んでいた。
日本は国策として海外に生命線を求める政策により、日清、日露戦争へと突き進んでいった。
これに対し社会主義者たちは日露戦争、朝鮮侵略に断固反対する闘争を展開。明治37年?38年の日露戦争は勝利したが、戦後の国内状況は財政難で増税、不景気、汚職事件、国債の膨大な累積など政治経済のあらゆる面で矛盾が噴出していた。
そんな中、社会主義運動に対する取締りも更に強化された。明治43年6月、信州明科の宮下太吉らと共謀し、爆裂弾で天皇襲撃を企てたとして、国内社会主義運動の最高リーダーでもあった幸徳秋水ら7名が逮捕された。
社会主義者の陰謀事件とされた「信州爆裂弾事件」はこれにより一件落着と思われたが、時の国家権力機構は、この事件を幸徳秋水を首領とする全国的な一大陰謀事件にフレームアップした。
これは社会主義勢力の撲滅をはかった国家的犯罪である。
幸徳秋水逮捕6日後、東京よりはるか離れた新宮に飛び火した。連携者として新宮在住の大石誠之助が逮捕された。
検察側は、明治41年7月郷里高知で静養中の幸徳秋水が上京する途中、主な同志に天皇暗殺の同意を得たものとした。7月25日、新宮の大石宅に着き、8月8日まで滞在した。この間、熊野川で川遊びをしたり、演説会などをして過ごした。検察では、これを瀞八丁で月見をしながら船中で爆裂弾を作る密談をしたとなる。
実際は昼間であり、場所は亀島、御船島付近でエビ採りに興じていた。11月19日、大石誠之助は遊びをかねて上京し、いつものように本や医療道具を探し、幸徳秋水を訪ねた。その時の冗談交じりの雑談が命取りとなった。
「こうなったら同志を集め、町中に火を放ち、さらに二重橋におしかけて米蔵を開かせ、貧民に分けてやろう。」社会主義弾圧の中、手も足も出なくなった同志たちは、ストレス解消のうっぷんばらしにこのような冗談をよく言ったに違いない。
12月1日、誠之助は帰路大阪に立ち寄り、大阪の同志にそのうっぷんばらしの話をする。これが検察によると、話を聞いた3人は決死の士となることに同意した、となる。
あけて明治42年1月22日、新年会をかねて集まった新宮グループ5人に誠之助は東京の土産話をする。検察側はこれも同様に5人を招集して、5人に決死の士となることを同意させたとなる。
第1回公判は明治43年12月10日に非公開の秘密裁判として行われ、翌明治44年1月8日、早くも判決が出た。判決は24名が死刑、2名が懲役11年と8年であった。
翌日、陛下の思し召しにより24名中12名が無期懲役の減罪となった。
判決の結果を被告・誠之助は「嘘から出た真である。人生は要するにこんなものであろうと思う。」と述べたという。誠之助は間際まで無罪を信じていたことがうかがえる。
この結果は内外に大きな衝撃を与え、米英仏などでは抗議運動などが巻き起こった。一方、新宮では、新宮町より3名もの大罪人を出したのは至尊にたいし恐懼に耐えずとして議員、区長らが協議し、謹慎の誠意を示すと報じられた。
大逆事件の弁護を担当した作家で弁護士の平出修は、この事件は後に日本の思想史上に最も重要な事項となるであろうから、として裁判記録、弁護メモなど貴重な資料を残していたのである。
新宮市では平成13年、市議会で大逆事件の犠牲者たちの名誉回復と顕彰することが決議された。
新宮生まれの大石誠之助は、同志社大学卒業後渡米、オレゴン大学医学部を卒業。アメリカ帰りの医師として明治29年(1,896年)新宮で開業した。誠之助は大石ドクトル、毒取る先生と呼ばれ、貧しい人からはお金を取らず、町の人からは赤ひげ先生のように感謝された。
大逆事件公判開始の記事にも誠之助については「被告中の一異彩なり・・・医は仁術なりの古風を学び謝礼金のみに止めて薬料の如きは貪らざるの主意なり・・・」とある。また、「顎鬚黒く品位ありその声さへ落着いているは医を業とする大石誠之助」と報じられている。医師であるとともにクリスチャンであり、優れた文化人であった。また禄亭と号し雑俳の大家でもあった。
「米の値に太き吐息をつきながら細き煙もたたぬ貧民」「身のもてぬ人は廓(くるわ)でもてるなり」
「恋の坂登りつめ運下り坂」などがある。
誠之助は、西村伊作の叔父にあたり、伊作も誠之助より思想的な影響を強く受けた。大逆事件では、伊作も捜査をうけた。叔父誠之助が東京に護送されたとき、オートバイで東京に向かったという激情派である。
与謝野寛(鉄幹)と佐藤春夫は、誠之助が処刑された時、彼を悼む詩を書いた。
与謝野寛
大石誠之助は死にました。いい気味な、機械に挟まれて死にました。人の名前に誠之助は沢山ある。然し、わたしの友達の誠之助は唯ひとり。わたしはもうその誠之助に逢われない。なんの構うもんか。機械に挟まれて死ぬような馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の誠之助。それでも誠之助は死にました。おぉ死にました。日本人でなかった誠之助。立派な気ちがいの誠之助。有ることか、無いことか、神様を最初に無視した誠之助。大馬鹿な誠之助。ほんにまあ、皆さん、いい気味な。その誠之助は死にました。誠之助と誠之助の一味が死んだので、忠良な日本人は之から気楽に寝られます。おめでとう。
佐藤春夫≪愚者の死≫
1911年1月23日、大石誠之助は殺されたり、げに厳粛なる多数の規約を裏切るものは殺されるべきかな。死を賭して遊戯を思い、民族の歴史を知らず日本人ならざる者、愚なる者は殺されたり「嘘より出でし真実なり」と絞首台の一語その愚を極めむ。われの郷里は紀州新宮、渠の郷里もわれの町。聞く渠が郷里にしてわが郷里なる紀州新宮の町は恐懼せりと、うべさかしたる商人の町は嘆かん。町民は慎めよ。教師らは国の歴史を更に説けよ。
二人の詩は、当局の目をくらますために風刺詩として書かれている。大石誠之助を思う気持ちが痛いほど伝わる詩である。
新宮に暮らす人々にとって、長い間、大逆事件は暗い影を残してきました。大逆事件の裁判が終わろうとしている頃、秋水は「思うに百年の後、誰かが私に代わっていってくれるだろう。」と手紙に残している。富国強兵の侵略時代に堂々と戦争は罪悪と説いた彼らの思想が今なら当たり前なのに・・・
新宮駅の近くには、大逆事件顕彰碑がある。