「不屈」大阪 350号 5面 2011年4月15日発行
大逆事件死刑執行100年から学ぶ (1)
住吉支部 T Y雄
一 大逆事件のころ日本は
ことしは、大逆事件死刑執行「1911年1月24・25日)100年です。
日本は明治維新後、近代国家建設まともない頃1894~5年に清国と戦争、勝利し領地と多額の賠償金を獲得しました。そして10年後、1904~5年にロシアと戦争、勝利しました。ロシアに対する勝利はヨーロッパ諸国の植民地にされていたアジア諸国から賞賛されました。
09年に伊藤博文を射殺した安重根も、当時「韓国の保全を重視し、東洋の治安と平和のためと述べていた日本が白色人種を打破した。痛快なことだ」と述べています。
日清、日露戦争を起こす日本政府の大義名分は、「朝鮮の独立とアジアの平和」でした。安重根は、本気で信じていたようです。
韓国に対する支配権の確立と、アジアヘの進出をめざすため、日清・日露戦争を始めたのです.日露戦争講和1905年9月)の2ヵ月後、11月17日、第2次日韓条約子調印、京城に日本政府総監を置き、初代総監が伊藤博文です。
韓国支配を強化するためにも国内世論の統一が求められていた頃、日本社会党(堺利彦、西川光次郎ら)の結成(1906年2月24日)、福田英子らの社会主義婦人雄誌「世界婦人」の発行、幸徳秋水らの日刊「平民新開」(日本社会党機関紙に)の創刊、足尾銅山闘争、三池炭鉱、長崎三菱造船など社会主義の高揚と労働争議のたたかいが高ま まっていました。 第3次日韓条約が1907年7月24日に調印され、韓国軍を解敗し、内政を完全に日本が掌握しました。国内では、1908年8月に「資本論」の訳が「大阪平民新闘に掲載が始まりました。当時の社会主義、無政府主義」は、ヨーロッパのように理論的に明確にに区別されていません。「共産党宣言」「ー空想から科学へ」の翻訳が1906年です。
社会主義、無政府主義の書物が豊富でありま世んでした。千駄ヶ谷平民社には、玄関にマルクス、談話室にクロポトキン、書斎にバクーニンの肖像画が飾ってありました。革命の方法で「直接行動派」と「議会政策派」が対立していました。
1908年6月21日(山口義三出獄歓迎会が東京神田錦町の錦輝館で開かれ、集会途中に「直接行動派」が赤旗を振りかざしながら街頭に出て、警官隊と衝突、乱闘になり14人の検拳者を出しました。2人が有罪、菅野すがと神川松子は無罪になりました。この事件は「赤旗事件」と呼ばれ、社会主義運動に対する取り締まりが厳しくなるきっかけになづていす。当時、首相も文官の西園寺公望首相から7月、陸軍の桂太郎に代わり、弾圧が厳しくなり、大逆事件につながります。
二 大逆事件は社会主義運動を潰すでっちあげ
「大逆事件」は1910年9月から検挙が始まり、数百人が逮捕、28人が起訴され、12月10日から大審院(現在の最高裁裁所)で裁判が始まりました。1911年1月18日に幸徳秋水ら二四人に死刑判決と2人が有期懲役11年と8年の判決が出され、1月9日に天皇の恩赦で12人が無期懲役に減刑されました。1月24日に幸徳ら男性11人の死刑が執行され、翌25日に管野すがの死刑が執行されました。
根拠とされた法律は、旧刑法じ73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇太子、又は皇太孫に対し危害を加え又は加えんとレたる者は死刑に処す。実行しなくても「しよう」としただけで死刑になるのです。飲みながら、雑談や冗談に言ったことでが、死刑判決の理由にされています。多くの社会主義者が逮捕されている時期、8月22日、「韓国併合条約」を調印しています。大逆事件以降、社会主義運動に打撃を与え 韓国に対する支配が強められ、天皇制が強化されています。
(つづく)
「不屈」大阪版 350号 (5面) 2011年4月15日発行