侵略戦争に反対し、獄死した反戦兵士 阪口喜一郎
顕彰碑建設30周年
1930年代初頭、日本帝国主義の中国侵略が本格化する中、あの弾圧・監視の厳しい海軍艦船の中で、反戦平和を呼び掛ける機関紙「聳ゆるマスト」を、6号まで、30~100部も発行・配布し、尊い命をささげた英雄的な活動は今では広く知られていることと思います。
しかし、喜一郎の生地・和泉市黒鳥でその活動が知られるようになったのは、60年代に入った繊維労働者の闘いの中で、労務のある人から「反戦活動して殺されたあんたらの先輩や」と写真を渡されたことがきっかけでした。その後、党史の調査・編纂や山岸一章さんの献身的な努力で出版された「聳ゆるマスト」などで、全国的にもかなり正確な人柄や活動内容が知られるようになりました。こうした中で、地元でも「顕彰碑建設委員会」が作られ、1,982年12月、今では桜の名所ともなっている黒鳥山公園の正門前に「顕彰碑」が建設されたのです。今年は30周年の記念の年を迎えます。
建設に携わった25名の委員のうち20名の方々がすでに他界されていることに加えて、昨今の改憲策動や尖閣列島問題をめぐる民主・自民などの言動を目の当たりにする時、新たな体制で「いつか来た道を歩ませてはならない」取り組みの強化が求められていると痛感するのです。
そんな思いを込めて、その取り組みの一翼を担う顕彰活動の強化のきっかけにと、喜一郎さんの活動された呉の地にその足跡を訪ねるバスツアーを計画しました。趣旨ご理解の上、積極的なご協力をよろしくお願いします。
(顕彰碑を守る会事務局 古久保氏)
※阪口喜一郎は、1902年1月、現在の和泉市に生まれ、高等小学校を卒業後、呉海兵団に入団。1930年、海軍の中で社会科学研究会を組織し、兵営内外の反戦・抵抗運動の中心的役割を果たしました。
1931年9月の満州事変、翌年1月の上海事件を受けた、海軍陸戦隊2800名の上海派兵決定に対し、「中国出兵反対!水兵の待遇改善をせよ!」を掲げて、1932年2月に反戦機関紙「聳ゆるマスト」を創刊。6号まで作成・配布されました。
1932年8月に野村梅子とともに上京し、党中央軍事部の新たな任務に就き、海軍横須賀基地での組織など活動しますが、その軍事部には、後に松本清張の小説、「日本の黒い霧」の「スパイMの謀略」であきらにされたスパイ飯塚が存在し、11月15日に、東京御徒町で上野憲兵隊に逮捕され、治安維持法違反で、広島・呉憲兵分隊にひきわたされました。
妻の梅子とともに呉に移送され、未決のまま広島拘置所に拘留。平原甚松は、1933年4月26日に治安維持法違反で起訴されましたが、喜一郎は、拷問に屈せず、未決400日の末、広島刑務所で獄死しました。