安賀君子 炎の生涯とその群像(5)
著/戸松 喜蔵(再録)
安賀君子が「戦旗」大阪支局員として、活動に参加した、1930年1月は、「戦旗」が党の方針により、新たにけわしい道への転換の時でありました。1929年12月、「ナップ」に結集していた文芸、美術、演劇、映画、音楽、などの各ジャンルごとにあらたに単独の組織として独立し、「ナップ」はこれらの団体の協議会に改組されました。これを期に、「戦旗」は「ナップ」より独立し、戦旗社による大衆的政治宣伝、煽動誌に性格をかえ、労働者階級と人民のあいだでの科学的社会主義の宣伝と党の方針にそった政治的啓蒙を行う、政治誌に変化したのであります。この転機により「戦旗」に対する弾圧は、いっそう強まり「戦旗」壊滅が特高警察の主任務となりました。
戦旗はその後発禁に次ぐ発禁、さらに印刷所の摘発、原稿の没収など、特高の激しい攻撃を受けましたが、困難ななかで党員や支持者に守られ「戦旗」防衛の闘いが不屈に闘われました。
君子はまだ活動の経験が浅いので森元支局長の指示により、読者会、学習会のチューターに、講演会の宣伝動員などの活動で、革命運動の初歩的な経験を体得する活動に専念していました。
「戦旗」の方向転換で、「戦旗」壊滅の特高の攻撃が一段と強まるなか、君子は毎日毎日緊張の中に身をおき、大阪外語、大阪高校、大阪市電・バスの読者会等を組織し、またアジトでの「戦旗」の発送など一日は短く、またたく間に2、3カ月がたちました。
森元支局長は、君子が与えられた任務を正確、積極的にこなしていく能力と、ととのった和服姿で三食、活動費自前という、財政的負担のかからない活動に、信頼を深めていました。君子もまた困難にめげず、「戦旗」の拡大と防衛に積極的に立ち向かい、森元支局長の戦闘的姿勢に信頼を高めていました。
2人の呼吸がぴったりとあい、これからと言う五月、全協繊維から堺市戎島にある岸和田紡績の争議に、君子と他1名のオルグを派遣して欲しいと言う要請がきました。
森元支局長はようやく活動に馴れ、信頼関係も深まった時にと、君子を派遣することになかなか承諾しませんでしたが、全協繊維の強い要請をことわり切れず、君子を岸紡争議に派遣することにしました。
君子、岸紡争議に参加
岸和田紡績堺分工場は南海本線堺駅の東北側、有名な堺市の内川に面したところで、戦前の操業時には船で原綿を搬入していました。
工場の設備規模は
錘数 19264錘
従業員男 111名
女 527名
社長は寺田甚与蔵で当時七八歳で、ケチ甚の綽名で有名でありました。
寺田甚与蔵は家業の酒小売業より身を起こし、煉瓦、紡績事業で産をなし、特に紡績では1920年に堺以南で六工場作り、十大紡に次ぐ紡績事業の成功者として寺田財閥を作り上げました。
甚与蔵の紡績経営の、労務体制では、泉南地域の未熟年女性の雇用、朝鮮人女性の雇用に力を注ぎ、長時間労働と低賃金で過酷な労働を強制し、あくなき搾取を欲しいままとする悪らつなものでありました。最盛期の1927年には岸紡で2千人の朝鮮人労働者が働かされていました。
このような劣悪な労働条件が日本人労働者にも、及んでいることは言うまでもありません。
戦前岸紡の争議を研究しているある学者は、「泉州の女工哀史」だと言っております。
このような状況のなかで、堺の岸紡で会社がどのような攻撃をかけてきたのか、労働者がどのように闘ったのか、争議の状況を当時争議の指導に当たっていた、日本労働組合全国協議会大阪繊維労働組合、泉州労働組合(全協系)などの当時の闘争ニュース、アッピール等で、知っていただくようにしたいと思います。
(続く)