安賀君子 炎の生涯とその群像(8) 著/戸松 喜蔵(再録)
5、この検挙で争議団は戦闘的な活動家を失い、争議の力関係は攻守処をかえ、会社と警察は優位に立ち無念にも争議団は涙をのんで敗北への道へ追いやられました。
5月16日(1930年)には、新労農党の大山郁夫委員長が、争議団応援のため来堺し、会社と警察署糾弾の大演説会を大浜公会堂で開きました。
演説会は、争議支援のために入場料20銭をとりましたが、大盛況で勢いのよい弁士の警察と会社の糾弾に、立会警察官が「弁士注意」「演説中止」などと、居丈高になって干渉すると、「警官は黙って聴け」「警官は会社の犬か」「警官横暴」などの、聴衆の怒号が場内を圧し、聴衆の中に配置されている制服の警官が自分の周囲でヤジが飛ぶと、「黙れ静かにせよ」などと大声で圧力を加えていました。
演説会は大盛況でしたが、争議団の闘いを支援するには時を逸し、闘いの支援にはなりませんでしたが、ただストライキの支援カンパとして入場料20銭とっていましたので、財政面で少しは争議団の援助になったのではないかと思われます。 警察は、多くの活動家を失って弱体化した争議団に追い打ちをかけ、残留女子争議団の宿舎を捜索し、強制的に全員、会社の寄宿舎に移動させました。また全協のスト指導部の中心であった庄田清、野崎弥八も18日、住吉のアジトを襲撃され、警官と乱闘、野崎は日本カミソリで警官に全治四週間の重傷を負わす等抵抗しましたが、逮捕されました。
6、壊滅寸前に追い込まれた争議団の指揮をとったのは、全協指導部と「争議戦術」で対立していた、新労農党の堺支部長石角(ニンベンに勇)吉でした。石角はここにきて、もはや争議を終結する他に手立てはないと判断し、かねてから内意の逢った警察の意向を受け入れ、争議終結にふみ切りました。
争議団は6月9日、綾之町の争議団本部で会議を開き、争議終結を確認しました。 争議解決は、堺と岸和田両警察署長に一任され、6月12日、堺警察署長室で、労資双方の代表によって次の条件で、40余日に及び日鮮労働者の血と涙、生命を削る闘いが、無念にも敗北の解決となりました。①スト指導部10名(男6名、女4名)解雇 ②争議中の日給争議費用として金一封 ③退職帰国者に旅費及び相当な手当 全協はこの解決の条件について、次のように批判しています。
「これは殆ど要求を容れられなかったのと変わりがない。100数10名の犠牲者を出し、40余日、常に争議団員に暴力的迫害を加えて来た、その官憲に改良主義幹部は調停を依頼し、かかる条件で屈服したのであった」と。
全協は泉州合同労働組合、新労農党を批判するとともに、自らも次のように自己批判しました。
「女工のみで毎日毎日勇敢なデモをやり、奴等をふるえ上がらせ、5月15日の夜の工場デモで、40数名の仲間を牢獄に送り、日本労働運動史上新記録を作った岸紡争議は、最後まで闘争心に燃えていた女工さんを、なぜもっと有利に戦わせなかったのか(―中略―)全部が最後まで闘う意思をもちながら、中心グループの結成を怠っていたため、団員自身を自主的に戦わせなかったため、最後をさびしく終わらせたのだ。
奴等と闘うためには、ガッチリとした、どんな弾圧にも崩れぬ組織が必要だ。俺たちは岸紡争議にこれを過ったのだ。再び過ちを犯さぬようにしなければならぬ。あらゆる機会を捉えて工場委員会を組織せよ」。この自己批判は、全協繊維の機関紙であった「繊維労働者」に発表されたものです。
(つづく)
お詫び 私は安賀君子を2ヵ月も堺署の留置場に入れて、岸紡ストライキを書きました。来月には、安賀君子を日の当たる所で活躍してもらいますのでご勘弁下さい。 (戸松)