歴史に見る「共謀罪」による不当な弾圧
大逆事件と治安維持法違反の泊事件の歴史的教訓弁 護 士 橋 本 敦
一、はじめに
今、国民の思想・良心の自由と権利をまもる重大なたたかいが大きく高まり広がっている。安倍内閣が「テロ等準備罪」とごまかしの名前をつけた憲法違反の「共謀罪」に反対するたたかいである。
安倍内閣は国民の反対をかわそうとして、「共謀罪」を「テロ等準備罪」などと名前を変えて強行しようとしているが、「共謀罪」なるものは、「市民が話し合い、相談し、計画し、準備するだけで、犯罪の実行がないのに処罰する、まさに思想・言論の取締法であり、かつての治安維持法の再来」というべき重大な悪法であり、テロ等準備罪と名前を変えても危険なその本質は変わらない。
今、この重大な共謀罪反対のたたかいをすすめる上で、明治43年、幸徳秋水ら日本の社会主義者に対する国家権力による弾圧であった大逆事件を振り返って、その大逆事件なるものが、当時の政権によって作り上げられた「共謀罪」であったと言う歴史の事実を明らかにすることが重要である。
この「大逆事件」はまさしく歴史上「共謀罪」の第1号事件と言うべきものであった。
この大逆事件をつくりあげた法律は旧刑法の第73条であった。それは「天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加エ又ハ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定めていた。
つまりこの刑法第73条は、皇族に危害を加える実行行為を死刑に処するだけでなく、それ以前でも、「危害ヲ加エントシタル者」は処罰すると定め、そのための共同謀議や計画の相談などの準備的行為も犯罪として死刑にするというのであった。犯罪の実行や着手がないのに事前の準備や協議をしただけでこれを犯罪として処罰するというのは、まさに今の共謀罪と同じである。
しかし、幸徳秋水らには、天皇に危害を加えようと協議・共謀した事実は全くない。それにも関わらず死刑にして弾圧した明治の大逆事件なるものは、まさに捜査権力と政府官僚によって作り上げられた「共謀罪」の歴史上第1号事件であった。
二、大逆事件の歴史的教訓を今に生かして
「共謀罪」の暴挙を許さぬために
大逆事件に適用された前述の明治4年制定の旧刑法の第1章「皇室に対する罪」の裁判は、当時の「裁判所構成法」により「第一審ニシテ終審トスル」と定められていた。
このため、大逆事件では不当にも地裁・高裁での裁判はなく、いきなり大審院だけのまさに一発裁判によって幸徳らは死刑にされたのであった。それは、近代裁判の原則も被告の人権も無視した許すべからざるものであったことは言うまでもない。そして、さらに重大な法的問題は、前述の「刑法第73条」で天皇や皇族に対し、危害を加える犯行には全く着手していないのに、「危害ヲ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」として、犯罪実行以前の「準備や共謀」で死刑にされたのである。
こうして、幸徳秋水や大阪出身の管野須賀子をはじめ、多くの社会主義者が、天皇に危害を加えることをたくらんだとデッチ上げられて、まさしく今に言う「共謀罪」によって弾圧され死刑にされたのであった。
共謀罪なるものがいかに危険な人権侵害をもたらすか、この大逆事件の歴史的教訓を次にみよう。
私も大変親しかった東京都立大学の塩田庄兵衛教授はその著「弾圧の歴史」(労働旬報社)で大逆事件について次のように論述されている。
「明治政府の言論や活動の自由にたいする徹底的な圧迫に強く反発した数名のアナーキスト(無政府主義者)が、爆弾を製造して明治天皇暗殺を計画した事実をスパイした権力者は、この実体のはっきりしないわずかばかりのパン種を、社会主義運動全体に対する大弾圧にまでふくらますという陰謀をめぐらしました。全国で数百名の社会主義者・無政府主義者、またその同調者が検挙され、そのうち26人が選び出されて、「大逆罪」すなわち皇室危害罪の容疑で起訴されました。この裁判は、当時の大審院(いまの最高裁判所にあたる)にいきなり起訴して、一回だけの審理で最終的結論を出してしまう一発裁判でした。被告側が請求した証人は1人も認めず、新聞記者も一般人の傍聴も認めない非公開の暗黒裁判であり、そして公判の開廷から判決まで1ヶ月あまりという、超スピードの裁判でした。1911年(明治44年)1月18日、判決が出されました。そして幸徳秋水や管野須賀子をはじめ12名の被告の死刑は、判決から1週間もたたない1月24日から25五日にかけて執行されました。
これはいわゆる「権力犯罪」の典型であります。それを仕組んだ真犯人は、当時の内閣総理大臣陸軍大将桂太郎、それを背後からあやつっていた陸軍元帥元老山県有朋、その手先になってきびしい論告求刑を行った主任検事平沼騏一郎(のちの総理大臣)といった人たちです。かれらこそは、権力犯罪の真犯人として責任を問われるべきであります」。
そして、この事実は、当時内務大臣であった原敬が自らの「原敬日記」の中で「今回の大不敬罪のごときもとより天地に容るべからざるも、実は官僚が之を産出せりと云うも弁解の余地なかるべしと思う」と書いていることでも明白である。
三、大逆事件(明治44年)の死刑執行100年に当たっての日本弁護士連合会会長談話と今日の共謀罪反対のたたかい
大逆事件により幸徳秋水らが死刑に処せられて100年になるにあたり、日本弁護士連合会は会長談話を発表し、その歴史的教訓を今日の自由と民主主義をまもる国民的たたかいに生かすことを次のように広く国民に訴えた。
「幸徳秋水らが逮捕、起訴された1910年(明治43年)8月には、韓国を併合するなど絶対主義的天皇制のもとで帝国主義的政策が推し進められ、他方において、社会主義、無政府主義者など政府に批判的な思想を持つ人物への大弾圧が行われた。そのような政治情勢下で発生した大逆事件は、社会主義者、さらには自由・平等・博愛といった人権思想を根絶するために当時の政府が主導して捏造した事件であるといわれている。
―中略―
当連合会は、大逆事件を振り返り、その重い歴史的教訓をしっかり胸に刻むとともに、戦後日本国憲法により制定された思想及び良心の自由、表現(言論)の自由が民主主義社会の根本を支える極めて重要な基本的人権であることをあらためて確認し、思想及び良心の自由や、表現(言論)の自由を制約しようとする社会の動きや司法権を含む国家権力の行使を十分監視し続け、今後ともこれらの基本的人権を擁護するために全力で取り組む所存である。
2011年(平成23年)9月7日 日本弁護士連合会 会長 宇都宮 健児」
日弁連はこのように大逆事件を重大な歴史の教訓として、国民の思想・良心・表現の自由を侵害する「共謀罪」のような政府の行為を許してはならないと宣言しているのである。
以上のとおり、共謀罪を許さぬ今日の我々のたたかいは、大逆事件の歴史的教訓を踏まえて、二度と過ちの歴史を繰り返さぬよう、憲法及び国民の自由と権利を守る重大な歴史的正義のたたかいである。
四、治安維持法による共謀罪の弾圧―泊事件
次に「稀代の悪法」とまで言われた治安維持法で共謀罪による不当な弾圧が行われた事実をかえりみよう。
そもそも治安維持法なるものが、いかにひどい弾圧立法であったかは今さら多言を要するまでもない。
治安維持法国賠同盟大阪府本部の名誉会長である柳河瀨精さんの著書「二一世紀を平和と人権の世紀へ」でも次のようにきびしく批判されている。
「治安維持法は弾圧立法の中心柱で、国民を戦争へと駆り立てるための恐怖政治の中心的武器でした。泣く子も黙ると言われた特高警察体制で戦争に反対し国民主権をめざしたものを徹底的に弾圧しました。
治安維持法によって検挙された人たちは100万人を超えます。そして天皇制権力のテロリズムに身をさらされて、そのほとんどの人たちが精神的、肉体的、物質的損害をこうむりました」(19頁)
このような治安維持法のもとで、今日、重大な問題となっている「共謀罪」による弾圧がすでに行われていたのである。
1925年(大正14年)に制定された治安維持法は、その第1条と第2条で次のように規定していた。
「第一条 国体を変革し、又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、又は情を知りて之に加入 したる者は十年以下の懲役または禁錮に処す 前項の未遂罪は之を罰す
第二条 前条第一項の目的を以てその目的たる事項の実行に関し協議をなしたる者は七年以下の懲役又は禁錮に処す」
すなわち、上記の第2条によって、第1条が禁止する国体の変革、私有財産制度を否認する共産党の結成や活動に参加しなくても、その目的とする項「私有財産制度の否認」や「国体の変革」などについて意見交換や「協議」することを処罰する。すなわち「共謀罪」が明確に定められていたのである。
そして、この治安維持法の「共謀罪」による弾圧が強行された著明な事件が特高警察が作り上げた「泊温泉日本共産党再建準備会議」事件なるものであった。
昭和17年7月5日、富山県泊町の紋左旅館において、細川嘉六を囲んで懇親会が行われた。
この会合は、細川嘉六が東洋経済新報社から出版した著書「植民史」の印税が入ったので、日頃から親しい雑誌編集者や研究者を郷里の泊町の紋左旅館に呼んで慰労と懇親の会をもったものである。
ところが、その時の写真を手にした特高は、これはまさしく「共産主義者細川嘉六を中心とする泊温泉日本共産党の再建会議だ」と決めつけて、関係者を次々逮捕し弾圧した。この捜査状況を昭和19年8月の「特高月報」は次のように記している。
「細川嘉六を中心とする所謂党再建準備会なる非合法グループ事件
之等の被疑者は、評論家細川嘉六を中心に『改造』記者相川博、小野康人、『中央公論』記者浅石晴世、木村亨、満鉄東京支社西尾忠四郎、東京新聞記者加藤政治等と共に同志的グループを形成し、諸般の左翼活動を為しつつある事判明せるを以て、更に右六名を追検挙せるが、その活動状況を列挙せば次の如し。
第一は日本共産党再建準備と見られるべき活動なり。即ち、
(1)之等の同志は一昨年(一九四二年)六月富山県泊温泉に於て細川を中心に会合して日本共産党の再建に付協議し、爾来之が準備の為活動し来れり」
この捜査は、細川嘉六の身柄を治安維持法違反の容疑により、神奈川県特高の手にゆだねるとともに、泊事件で逮捕した七名に加えて関係のある雑誌や出版社などの60数名の言論関係者を治安維持法違反の共謀罪にデッチ上げ、次々に逮捕するという一大言論弾圧事件となった。
こうして特高は、日本共産党の再建のための「共謀」がなされたと言う「日本共産党の再建会議」と言う事実無根の治安維持法違反の「共謀罪」を作り上げたのであった。(この横浜事件と特高の暴挙の詳細については「治安維持法と現代」誌(2006年春季号)の橋本論文「治安維持法と横浜事件」を参照されたい)
―おわりに―
今、安倍内閣がたくらむ「共謀罪」なるものに大きな国民の反対が高まり、それは「治安維持法の現代版」ではないかとの強い批判が広まっているのは、以上に述べた歴史的事実をかえりみても当然である。
まさしく、治安維持法という天下の悪法はすでに今日の共謀罪をその中に仕組んでいたのであった。
こうして、治安維持法を許さずその犠牲者への国家賠償を求めて活動している治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟の我々こそ、今「共謀罪」反対の国民運動の先頭に立って奮闘したいとの決意を熱くして本稿を終わるものである。
(なお、私のこの論稿は問題の歴史的把握のためのごく一部にすぎないが、このたび発行された治安維持法国賠同盟本部の「憲法違反・戦争準備の『共謀罪』」を粉砕しよう」は治安維持法の歴史的たたかいを踏まえての充実した見事な論稿であり多くの方々に是非お読みいただきたいと願う)