安賀君子 炎の生涯とその群像(10)
著/戸松 喜蔵(再録)
君子 党と全協の関係を追及される
検束者をはるかに上回る動員された警官のサーベルの音、怒号と喚声。朝鮮婦人労働者に対する警官のテロ、アイゴーの叫びそして涙と汗。警察の建物が破滅しそうな怒りのなか、朝の太陽がキラキラと昇るころ、怒りに燃えた争議団と支援団体、応援の市民の高まった激情もさらなる糾弾を誓って一応解散しました。
抗議集団の解散によって外部からの圧力がなくなり、ようやく静かになったので、警察は態勢を立て直して、いよいよ検束者の取調べを開始しました。
取調べは府警と堺署の特高が中心となり、他の署からも応援が入り、朝鮮人は特高の朝鮮係りが担当し、日本人は特高の労働係りが担当して調べ役とテロ係りが組みとなって、少しでもあいまいなことを言うと、容赦なく竹刀が飛んでくる。人権を認めない、暴力を背景にした国家権力の容赦ない取調べです。
木刀を喉元に突きつけられて「こらっ住所姓名は、いつ日本に来た」と怒鳴られ度肝を抜かれて、ただなくばかりの朝鮮人の女工さんたち、警察と言うところはこんなにも恐ろしいところかと骨身に知らされます。
朝鮮では貧しさゆえに生活ができない。日本に働きに行って父や母にお金を送ってやろう、妹や弟にもと、涙で日本に来て働いてみると、賃金は安い、これでは家にお金も送れない、どないしょう。 みんなで賃金を上げて貰うためにストライキをやろうと決め、必死でストライキをやった。それなのに、なぜ警察でこんなひどい目にあわなければならないのだろうか。遠く朝鮮の父母兄弟を思い、涙と悲しみをこらえて働かされている朝鮮の娘たちは、さぞや無念だったろうなぁ…と思いをいたし、これを書いている私も悲しみと怒りがこみ上げてきます。
過酷な取調べの結果、騒擾罪で41名が検察庁に送られました。裁判の結果、全協のスト責任者庄田清と野崎弥八は懲役2年、泉州合同労働組合(労農党系)の増栄末松委員長は懲役6ヶ月でありました。
いよいよ安賀君子の取調べです。大柄で大きな顔、色黒で太い眉、精かんな顔つき、いつもきっちりした和服姿で、どこにいても目立つ姿かたち。特高は安賀君子の取り調べに当たって、大阪戦旗支局で活動していたこと、兄の秀三が東京帝大出身で、大山郁夫労働農民党委員長の秘書であったことなど、すべて調べておりました。
安賀君子が特高の調べ室に連れていかれると、特高が大声で「今日は何もかもしゃべって貰おうか、女の子を引きずり回しゃがって、何もかも調べ上げているんだぞ」と、初めから脅しをかけてきました。この一声で安賀君子の腹のなかで、だいぶ慌てているなぁ…と思い、特高の腹の内を見透かしました。
戦旗大阪支局を通じて、どんな指令を貰ってきたのか、共産党の誰と会っているのか、全協の庄田と連絡してどんな指令や指示がされたのか15日の暴動にお前も協議に参加しただろうなどと大声で脅しながら、背中をめった打ちに木刀で殴りかかりました。その日は黙秘で、たたかれてくたくたになり、ちょっと「小手調べ」と言うかたちでブタ箱に帰されました。
1日おいてまた取り調べがあり安賀君子は、「私は党にも全協にも関係がない。岸紡争議は石角さんに頼まれて応援に行っただけ、石角さんは私の兄と知り合いだ」と、頑張り通しました。
特高もせめる手段がないまま、二度三度取り調べましたが、安賀君子は全く言うことがないと黙秘で抵抗しました。攻めあぐんだ特高は、一九日間の勾留を打ち、騒擾罪の適用をあきらめました。
安賀君子は、初めて特高との攻防戦に勝利したのです。身元引き受けに来た母親のキクさんと共に、胸をたたいて警察を出ました。
(つづく)