安賀君子 炎の生涯とその群像(11)
著/戸松 喜蔵(再録)
君子 全協繊維のオルグとなる
母キクと喜び合って帰宅した君子は、玄関から家に入ることが出来ず裏口から入り、まっさきに風呂場に飛び込みました。
二ヵ月近くも警察の留置場(ブタ箱)に居たので、肌着や着物、頭の髪の中までノミ、シラミが住み着いており、これを撲滅するには、沸騰した熱湯のなかにつけておかねばならなかったからです。君子は母が用意してくれていた風呂につかり、ブタ箱の垢を落としほっとすると、母の深い愛情に胸が熱くなり、ようやくくつろぐことが出来ました。
母キクは、君子が帰って来たのでほっとすると同時に、「また出て行くのではないか」と、心に不安を抱きながらも、衰弱している君子の健康回復のために、涙ぐましい愛情を注ぎ看護に尽くしました。
一方君子は体調の回復を待って、一日も早く活動に復帰することに意欲を燃やしていましたが、特高に木刀で殴られた背中と、膝の関節が痛むので、和歌山の椿温泉に湯治療養に行くことにしました。湯治は一週間か、十日くらいで帰宅し、また湯治に行くというかたちで治療に専念していました。
残暑もやわらぐ九月になると、温泉療養の効果のあらわれか、痛みが少し残る程度に元気を回復し、君子は母と共に喜びあっていました。そんな折り、泉原万次郎から病気はどうかとの病気見舞いとともに、相談したいことがあるので、泉州労働者組合の事務所まで来て欲しいという連絡がありました。君子は、背中の痛みも膝の痛みもあと一歩で全治するところまで良くなっていたので、泉原の要請を承諾しました。
岸紡争議の折りに通いなれていた泉州労働者組合の事務所に行きますと、山六(山田六左衛門)と泉原が待っていて、「ボチボチ動いてくれないか。岸紡争議で泉州の全協繊維のオルグがいなくなった。まとめて欲しい。」と言うことでした。
君子は、話が決まると早速泉原の協力で、堺市の中心街を走っている阪堺線の我孫子道停留所の近くに、アジトを作り、「病気もまだ治ってないのに」と、必死で止める母キクを説得し、オルグとして活動を再開しました。
ここで当時の泉州地域の全協繊維の活動情況を述べておきましょう。大和川染工場―大和川左岸で府道十三号線の西側―には和田しげ(林直道氏の先妻で死亡)が地域の活動家と協力し、サークル活動で主として女工さんを組織していました。福助足袋では泉本克美を中心とした、耳原からの通勤の女工さん達の組織が作られていました。南海本線堺市駅の西側の福島紡績では、志田重男が紡機の「かげん師」として、紡機調節のために、工場の中をどこへでも歩き回ることが出来たので、作業中もビラを女工さん達に渡すなど活発な活動をしていました。岸紡争議応援で全協繊維の名前で何回もビラを出したので、会社と特高ににらまれ逮捕されそうになったので難を避け、大阪で全協繊維のオルグとして活動していました。
岸和田・貝塚中心の泉南の繊維産業は、堺泉北の繊維産業とは比較にならない規模を持っていました。その中で泉州労働者組合は、全協支持の個人加盟の組合でしたが、常時一〇〇名近い組合員を持ち、寺田紡績争議でも堺工場のストに呼応して寺紡のゼネストを計画するなど、旺盛な戦闘性を発揮していました。しかし寺紡争議では指導的幹部や戦闘的組合員の多くが検挙投獄され、残念にも組合の活動力は低下していました。これを早急に再建しなければならない時期でありました。
このような情況の中で、全協繊維の組織拡大と活動の中心をどこに置くかを調査した君子は、第一に泉州労働者組合の強化、第二に寺田紡績の三工場(本社、春木、野村)に全協繊維の組織をつくるという二つの目標をたてました。まだ時には少し痛む背中と膝の病苦を気力で吹き飛ばしながら、君子は闘いの先頭に立ちました。
安賀君子 炎の生涯とその群像(12)
複合的巨大産業にいどむ安賀君子
一 安賀君子が階級闘争に参加してたたかった経験は、戦旗大阪支局での活動と、岸和田紡績堺工場のストに参加した七カ月余の経験だけであります。
泉州地域の全協繊維の組織強化のため、初めてオルグとなり、未知の活動へ突入しました。
短い日時で泉州地域の繊維産業の現状を調べ、全協繊維のオルグとして、どこに活動の重点をおくかを分析し、
1 泉州最大の紡績である岸和田紡績の中に、強大な全協繊維の組織を作る
2 岸紡堺工場のストライキで多くの犠牲者を出し、弱体化した唯一阪南における全協支持の泉州労働者組合を強化発展させる。
安賀君子がこの方針を短時日で決めることを援助したのは、戦旗大阪支局長の森元宗二でありました。
安賀君子は全協繊維のオルグを承諾するとすぐに森元宗二に連絡をつけ、活動の援助を頼んだのです。
森元は安賀君子に、「あせるな、現状を充分に把握して的確な方針を立て、一歩一歩前進せよ」とさとし自分が育てた安賀君子の革命家として成長した姿に、胸を熱くしました。
森元宗二と安賀君子の交友は、二人の刑務所生活時は別にして、一九三七年七月頃、安賀君子が春日庄次郎と結婚し、「共産主義者団」結成の直前までつづきました。
二 ここで安賀君子が当面、闘争の相手とする岸和田紡績の業界における地位、事業構成などと、岸和田・貝塚・泉南地域で革命的労働組合の旗をかかげて、岸和田紡績と闘っている泉州労働者組合について報告します。
イ 紡績の糸、各種の織布、完成された繊維製品を総合した岸和田・貝塚を中心とする泉南地域は、巨大な複合的繊維産業地帯です。その中で、「ケチ甚、吸血鬼」などと言われている寺田甚与茂の支配する岸和田紡績は、直轄三工場―本社・春木・野村―を中心に、和泉紡績をはじめ中小紡績を傘下におさめ、一九二六年(大正一五)、資本金九七五万円、運転総錘数一六万一、六八〇錘、据付未錘数四万七四八錘、織機一、一六四台、従業員六、三一〇人を有する十大紡につぐ大企業でありました。
創業も古く、一八九二年(明治二五)、明治、大正、昭和の三世代にわたり、泉州地域の紡績・織物産業を支配してきました。
寺田甚与茂の労務対策は、労働者の人権を認めない過酷をきわめたものでした。そのために岸和田紡績では、生命をつなぐ労働者の闘いは毎年毎年続発しました。
私(戸松)の持っている資料は少し古いですが、 ・一九二二年(大正一一)岸和田紡績本社九回、朝鮮人労働者独自二回、計一一回 ・一九二三年(大正一二)春木工場三回、野村工場五回、和泉紡績一三回、寺田紡績二回、計二三回 ・一九二四年(大正一三)泉南紡績(本社・春木・野村)で八回 ・一九二九年(昭和四)春木工場三回
私はこの数字を書いていますと、寺田甚与茂の労働者に対する過酷な労務対策に怒りがこみ上げてきます
ロ 一九二八年三月一五日、日本共産党に対する天皇制政府の大弾圧とともに、革命的労働組合である評議会をも解散させました。評議会に結集する労働者は、天皇制政府の弾圧を乗り越えて、一九二八年一二月二五日、輝かしい評議会の伝統を受けつぎ、日本労働組合全国協議会「全協」を結成しました。
岸和田・貝塚・泉南地域では、評議会を支持して闘いつづけてきた泉州労働者組合は、一九二九年一月一〇日総会を開き、新たに「全協」支持を決定しました。
また組合役員には、和泉紡績、岸和田紡績、泉州織物、中川別珍、地域代表などから一三名を選出。常任委員に中町彦三、石橋千仭、畑中保三、中野音次郎を決めました。
安賀君子 炎の生涯とその群像(13)
決意も新たに革命的労働組合「全協」を支持して闘う体制をととのえた泉州労働者組合は一九二九年一月一〇日、闘争ニュース第一号を発刊した。
発刊のことば。一九二八・三・一五事件において山田君をうばわれ、秋の大典に際しては更に岩瀬君が岸和田署で殺された。泉州労働者組合は一九二九年を迎えてここに闘いの旗を進める。見よ、嵐の如き資本家地主とその政府の弾圧の中に、あとからあとからと確立されていく工場分会を!これこそ旧評議会の血をうけついだわが泉州労働者組合が唯一の味方であることをハッキリと示すものだ。コノ一九二九年こそは、うばわれた山田君、岩瀬君のトムライ合戦だ!
泉州労働者組合の旗の下に!
泉州労働者組合は「闘争ニュース」を次々と発行し、「闘争ニュース」を中心に労働者農民の闘争を激励し、闘いの方向を勇敢に示しました。
また此の年の一月一五日に行われた市会補欠選挙では、労農政治同盟準備会泉州支部を組織し、田辺納を候補にして、資本家地主の岸和田市会を解放しろ!労働者農民無産市民の市会をつくれ!労農政治同盟の旗を守れ!田辺君を市会におくれと勇ましく選挙闘争を展開いたしました。
選挙の結果は、田辺納は二百九一票で当選できませんでしたが、泉州労働者組合の自己主張が大いに認められ、一般紙もオドロイテいました。
精力的に発行されている「闘争ニュース」は読んでいる私(戸松)の共感を高まらせる記事が多くあり、全部を発表したいと思いますが、紙数がないので、日本共産党事件で未決に居る元組合政治部長山田安君が獄中より組合に寄せた手紙で、三・一五事件一周年を闘う「闘争ニュース」第四号を報告します。
前略、文字通り堅忍苦闘のことと思うが、いうまでもなく、いかなる場合にも断じて自己の使命をいやしうすることなく、堂々とその所信に任ずることが第一だと思うが、「凡そ世のすべてのものみな容易ならざるの理あり」で、決してひとりよがりの因陋におちいらないことが、くれぐれも必要だと信じる。此の感じは益々僕の日々に深うすることだが、君らには或いは申すまでもないことかも知れぬ。折角自責をお願いする。
鮮人同志諸君へは殊に宜しく。西納君のところに会堂した青年諸君は健在ですか。今更何も申し上げるも及ばない。精神と忍耐とをお祈りする。牢獄にて、 安喬
また此の時期 渡政葬儀基金一千円募集 が行われ、組合責任額一〇円、今一円五〇銭送った。三月五日〆切だ全国の同志に遅れるな!風呂やタバコの釣銭を基金へ!
何とも涙の出てくるアッピールである。
「闘争ニュース」七号 一九二九年三月二五日付、
「組合最近の活動、渡政・山宣労働者葬」
日本共産党大検挙一周年のこの三月一五日を期して、資本家地主に虐殺された渡辺政之輔、山本宣治の労働者葬を全国いっせいにやった。
大阪ではサーベルの林をつくって此の葬儀をふみにじり、京都では騎馬巡査を以てけちらかした。しかし、東京では数万の労働者が腕を組み市中をねり歩いたという。わが泉州でも労農同盟泉州支部と協力してビラ四種(それらはすでに諸君が貰っただろう)を全泉州の各工場にもれなく持ち込んだ。その際組合常任中野君石橋君は岸和田警察に三日、中野君は大阪エビス警察へ二日もひっぱられた。労農同盟支部では田辺、畑中君が岸和田警察へ三日やられた。
此の暴圧を更に各工場の兄弟に知らすべく、併せて三月一八日(パリ・コムミューン)の歴史的意義を知らすために一八日朝いっせいに各工場にビラを持ちこんだ。それにふるえ上がった岸和田警察は、常任石橋君を二日検束した。
私は「闘争ニュース」七号で、渡政・山宣の労働者葬と共に(パリ・コムミューン)の歴史的意義を労働者に知らすために工場にビラを入れたことに、大きな喜びを感じました。
(つづく)