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治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部
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「不屈」大阪府版 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪府本部web
by doumeiosaka
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不屈 大阪府版
治安維持法犠牲者
国家賠償要求同盟
大 阪 府 本 部
大阪市天王寺区寺田町
2-6-2 東大阪ビル3F
tel&fax
06 6772 7555
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不屈 大阪府版
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2005.11.1開設
【わたしたちの運動】
ふたたび戦争と暗黒政治をくりかえさないために、治安維持法犠牲者国家賠償法(仮称)の制定を求める国会請願署名など平和・人権・人道の運動に取り組んでいます。
【おことわり】
コメント、およびトラックバックは、不屈おおさかへのコメント、トラックバックとしてふさわしいか、誹謗中傷や不快な表現、公序良俗に反する内容が含まれていないかを管理者が判断し、予告なく削除する場合もございます。予めご承知おき下さい。
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安賀君子(連載14~17)
安賀君子 炎の生涯とその群像(14)
著/戸松 喜蔵(再録)
絶対主義的天皇制は、日本共産党にたいし、一九二八年三月一五日大弾圧を加え、さらに一年後の一九二九年四月一六日またも、党員と支持者三〇〇名を検挙しました。なおこの年には、市川正一らの検挙をふくめ総数一〇〇〇名が検挙されました。 泉州労働者組合では、三・一五の大弾圧で山田六左衛門と荒木卓郎が治安維持法違反で検挙され、秋の京都における昭和天皇即位の大典で、警戒のため「危険分子」の予防検束が行われ、委員長の岩瀬潔と中町彦三が岸和田警察に検束され、大典終了後、中町は帰ってきましたが、岩瀬潔は警察で虐殺され、生きて帰ってきませんでした。
――岩瀬の死については、次の稿でくわしく書きます――
組合員は悲しみと怒りでからだを熱くし、11月20日「泉州無産団体葬」を警官に包囲されながら多くの参加をえて、委員長の死のをとむらいました。
泉州労働者組合が三・一五事件で弾圧され、また初代委員長が警察で虐殺されるというショッキングな実態をのりこえて、一九二九年一月、革命的労働組合として新しい展望を切り開いて意気高く前進の第一歩をふみだしたのです。このことは本連載一二号・一三号で書きましたが、無念にも新たな活動を開始して三ヶ月、絶対的天皇制政府はまたも日本共産党に大弾圧を加えてきました。この弾圧で大阪では数十名が検挙され、泉州労働者組合も常任委員の中町彦三、石橋千仭、畑中保三、中野音次郎が検挙されました。畑中と中野は警察犯処罰令で三〇日の勾留で釈放されましたが、石橋と中町は治安維持法違反で起訴され帰ってきませんでした。
四人の常任委員が検挙され、(二人は)一ヶ月後帰ってきましたが、激動の一ヶ月、組合員は指導者を失って、重苦しい情勢のなかで指導者が帰ってきても、おいそれと集まってきませんでした。
畑中と中野は情勢の変化のなかで、負けてたまるかと、いちから出直しだと腹をすえて組合を再構築することをちかいあいました。 私は一九三〇年五月、岸和田紡績堺工場のストライキに呼応した岸和田三工場に対する泉州労働者組合の勇敢なたたかいを見て、苦節一年、畑中、中野の活動の成果がいかんなく発揮されたと感銘し、生前知り合いの二人に、当時のことを聞かなかったことを悔いています。
これから安賀君子の活動に筆を進めます。 安賀君子は岸和田泉南地域における「全協」組織の拡大と、さしあたって岸紡争議で大きな痛手を受けた泉州労働者組合の強化、岸和田紡績に「全協」組織の構築を目標に、泉州労働者組合の常任委員の畑中保三、中野音次郎とあい、いろいろと協議しました。
畑中、中野は「全協繊維の構築強化もさることながら、私達は自分の組合(泉州労働者組合)の再建・組織の拡大で手と頭がいっぱいである。むしろあなたがわれわれの組合強化のために力を貸してほしい。目的はおなじやから。」さすがの修羅場をくぐってきた闘士だけあって、毅然とした態度と方針を持っており、三人一体となって、「全協」も泉州労働者組合も拡大強化して行くことになりました。
安賀君子はこの三者会議で、自分の思っていることがより具体的になったので、元気がでてきました。岸和田紡績の工作については、警戒のきびしい本社を避けて春木、野村両工場に核を作ることを目標にし、両工場の朝鮮人相愛会革新同盟の同盟員にも連絡がつくので、職場の情況を聞き、日朝両方の女工さんの中に核を作ることを当面の目標にしました。
畑中、中野の二人の常任は活動の分担を決めており、中野は南海貝塚駅を少し下がったところで、古書籍店「すずめ屋」を経営しており、この書店が泉州労働者組合の連絡所でした。畑中は別のアジトをもっており、組合の文書の配布、連絡、会議など、自転車で走り廻ってしました。
安賀君子 炎の生涯とその群像(15)
著/戸松 喜蔵(再録
)
岡映(十九歳)、安賀君子と連絡し、指導を受ける
一 安賀君子が泉州労働者組合の畑中、中野常任と意志を統一し、岸和田紡績の春木、野村工場に全協繊維の組織化の目途がつくと、君子は中野音次郎から、貝塚・清児の田中染工場で全協繊維の組織をつくって奮闘し、共産党を求めて精力的に活動している青年と連絡、指導して欲しいと要請されました。 この青年とは、現在(※執筆当時)岡山在住で、全国部落解放運動連合会名誉中央委員長の岡映でした。岡映は一九二八(昭和三)年二月京都から父母の住んでいる貝塚市石才(地名)の家に住むようになりました。一七歳でした。 家庭は複雑で、実父は十数年前に亡くなり、新しい夫をむかえて多産な母は、一六年間に九人の子どもを産みました。しばらくして一家は隣村の清児の新しい家に移りました。彼は複雑な家庭のなかで、辛抱強く緩和剤の役割を果たし、人間的にも成長して行きました。 働かなくては生活ができないので近所の友禅工場に働きに行きましたが、一九二八年当時は深刻な不況で友禅工場も仕事がないので、田中染工場に転職しました。田中染工場では、文学に興味をもっている青年もおり、そのなかで中心になっている大植直次という青年と親しくなり、職場に文学サークルをつくりました。 いろいろ論議したうえ、同人雑誌「麗光」をガリ版で刷って出しました。彼は雑誌の評論を担当し、ほかにも詩や短歌をつくり、「麗光」の内容充実に力を注ぎました。 この文学サークルが後日、田中染工場のなかに労働組合を結成する中心的な役割を果たしました。
後に岡映は述べています。「この時期、私は特高刑事や憲兵の自宅訪問を受けました。なぜ一介の染色職工が特高の訪問、『調査監視』を受けるのか、思想的にいっても極めて貧弱な状態にしかなかったのに、合点のいかぬことでした」と。
二 職場における文学活動や、不況のなかでの労働者の闘いに共鳴しての自らの意識の高揚を、彼はまた次のように述べています。「文学的な感傷の勝った少年期に終止符を打ち、私が階級的・思想的な転換に邁進する歴史的段階に進み入る、その前節といえる時期であった」と。彼は自伝のなかで時期を明らかにしていませんが、私(戸松)は一九三〇年の春ごろではなかったかと推察しています。
この意識向上のなかで岡映は「このまちがった社会の矛盾をなくする以外に解決の道はない」と思うようになってきました。
彼は自伝で述べています。「そのために共産党と逢いたい。私たちは共産党さがしをやるようになった。共産党と逢うには労働組合と関係をもつのが最も近い道だと考えて、泉州合同労働組合の委員長である田辺納に会いに行った。田辺はわれわれにいろいろ話をしてくれたが、われわれが聴きたい話は何もしてくれなかった。また話の内容も実がなかった。この人は“巧言令色鮮し仁”の人だなと思った。そんな帰り道、私たちは『すずめ屋』へ古本を見ようと立ち寄った。『すずめ屋』は南海電車貝塚駅前通りにあり、三坪ほどの小さな古本屋で、私はこれまでこの店で古本を買っていた。その日は前から見つけていた二冊の本を買うつもりであった。二冊ともレーニンの著書で、『背教者カウツキー』と『共産主義の左翼小児病』であった。私がこの二冊の本を求めると、店の主人は、度のきつそうな眼鏡の底から、きびしい目で私を見据えて、『この本、君が読むのかえ』、と聞いた。私が、『僕はこういう本が大好きなんです』、と言うと、主人はにわかに丁寧な言葉になって、『そりゃよいことですよ。僕はこの店の主人で中野音次郎といいます。住居は南海電車の線路を越えた向うなんですが、独り住まいなんです。夜の八時すぎならたいてい家におりますから遊びに来ませんか。ここに置けん本などは家に置いてあるので、あなた方ならきっと喜ぶものがたくさんあると思います。ぜひ友達になって下さい』と言う。むろんわれわれに異論があろう筈がなかった。必ず訪ねることを約束した」。
安賀君子 炎の生涯とその群像(16)
著/戸松 喜蔵(再録)
岡映と田中染工場の数人が早速中野の家を訪ねました。そこで初めて『無産者新聞』を直接見ることができました。また当時とても入手困難である『赤旗』の話を中野から詳しく聞くことができました。岡映は自著『莉冠記』の中で、「彼の言語動作には思想的にも人間的にも実に深いものを感じさせるものがあった」と書いています。また「私達は三日にあげず中野の家に通い、無産者新聞読書会を定期的にもって、科学的な理論の学習を始めました。そして、ブルジョアジーの思想に根ざしたヒューマニズムの弱点を克服し、確固たるイデオロギーを身につけることに努めました。その当時中野音次郎は、私達若輩にとっては権威ある指導者でした。 私達は学習と同時に他方では、日本労働組合全国協議会(全協)繊維労働組合田中染工場分会を組織して私がそのキャップ(責任者)に推薦され本格的な実践活動に踏み出しました」と述べています。
階級的な目ざめ、共産党さがしを始めていた岡映が中野音次郎の指示により、日本共産党に指導されている全協繊維の分会を職場で組織し、決意を新たに意気高く燃えているとき、全協繊維のオルグ安賀君子の連絡をうけ、安賀君子と岡映が結びつくことになります。しかしこの結びつきには残念ながら安賀側には資料はないのです。ただ安賀君子というすばらしいオルグと結びついた岡映の感激は、戦後書かれた自伝『莉冠記』を読んで安賀君子が岸和田紡績堺工場のストライキ以後(ストライキは五月)、岸和田、貝塚、泉南地域の全協繊維のオルグとして派遣されてから、病気再発のために短い期間(約二ヵ月)でしたが、接する人に強い印象をあたえていることを知りました。岡映もその一人です。 岡映は『莉冠記』第一部 模索下の中で、安賀君子との結びつきについて次のように書いています。
その頃私は城英子と名乗る女オルグと連絡をとるようになった。その場所は多くは路上であり海岸や池の土堤などであった。そこで彼女から他の労働組合のニュースや新聞などを受けとった。彼女はメリヤス工場で働いていると言っていたが、それ以上のことは言わなかった。私も彼女は何者であるかを深く問いただすことをしなかった。 私は「すずめ屋」の学習会で中野から「地下活動」の心得をよく聞かされていた。「すずめ屋」の中野は「党が非合法である今日、連絡は党員と党の機関をつなぐ血脈のようなものである。
党が党として機能を発揮できるための前提条件であるから無断で連絡を切ってはならない。指定の連絡場所には時間におくれてはならない。相手が来ない場合、街頭で立ち止まるな。相手の氏名・住所など聞いてはならない。」などきびしく教えられた。
私は城英子(安賀のペンネーム)と名乗る彼女から話されたこと以外に何ひとつ知らないし、また聴こうとも思わなかった。他の同志の話では女子大出のインテリだとのことで私より四、五歳年上のように見えた。
確かに社会主義理論をよく身につけていてマルクスやレーニンの著書の話をよくしてくれた。要するに城英子は私が最初に出会った姉のような婦人オルグであった。だがその姉さんオルグは私にとっては優しいばかりでなく、ときには厳冬のようなきびしさがあった。
「岡君あなたは信頼できる人で勇敢でもあるけれど、理論の裏付けのない行動や勇気はつまりは“匹夫の勇”でしかないでしょ。惜しいかな あなたにはその理論が欠けている。私はあなたがマルクス・レーニンの理論を学習して、科学的理論を身につければ素晴らしい活動家になれると信じています。是非、勉強して下さい」と。
その日は春を思わせるとても暖かい冬の日であった。田圃の畔に腰を下ろして二人は恋人同士であるように肩を寄せて話し合った。
安賀君子 炎の生涯とその群像(17)
著/戸松 喜蔵(再録)
その後の彼女との連絡は、全くの事務的なものと言う以上のものがあり、こころが温まるものを覚えた。もとより色恋などと言うものでなかったが、それまでに私の出会ったどの女性にも感じられないものが彼女にあった。それを今表現することはむつかしい。強いて言うなれば「同志愛」とでも言ったものかも知れない。私(岡映)は城英子(安賀君子)に対する感情を、そう表現できると思っている。
然し城英子との出会いは、私にとって大きなプラスになった。それまで私は「百科全書」的な雑学であって系統的に学習して、実践的な経験をそれに結びつけるという点で欠けていた。それには私の生い立ちが示すように、文字の一字一句からの独学であり、手当たり次第の読書をする以外に学習の道を知らなかったためということもあった。だがそうした自己流でよい筈はなく、城英子は最も大切なことを私に教えてくれて、私の前から永久に消えたのである。
それ以後、私は本格的に体系的な理論学習を始めた。私は、イギリスの経済学者ミルがその自伝で述べているような、「学校は友人を作るだけのところ」などと考えて、独学の道を選んだわけではない。「部落民の子」として生れ、父母と早く別れて貧苦の中で育ってきた私は、「部落問題」を探求し、貧乏と差別の原因を知ろうと考えて、独学を志したのである。はじめから、学者になるつもりもなく、資産家になったり、立身出世をするなどの「大望」もいささかも抱いていなかった。ただ、部落からの解放を望み、日本から貧乏をなくしたいと願っての、私の学問であった。
城英子(安賀君子)の忠告が身にしみて嬉しかったのは、そうした私の過去の歩みからいって当然のことであった。それは階級的な意志を強固にするうえで、大変に役立つことになったのである。それにしても彼女の存在は、私にとって奇しき縁といえるものであった。
いのちさえ保ちてあらば いつかまた 会う日あらむと思いしものを
私は昭和一四年から一六年にかけて京都刑務所の房内で、再会を約しつつ闘いの中で倒れて行った同志のため、「哀悼の歌」を詠じて母への手紙の中に書き溜めて送った。右の歌は、同時期の歌を集めて「獄窓の春秋」の中に収めたものであるが、城英子も、その一人に含まれるといえよう。
岡映は、また自著「荊冠記」の中で、「私も治安維持法違反で二度も京都刑務所へ入所して、あの高いコンクリートの塀で社会とは隔てられていたので、多くの同志たちと再び逢う事ができなかった。城英子もその一人で、敗戦後もその消息を訪ねてみたが分からずじまいである。本名も知らないこととて、逮捕されたか否かということも判明せず、青春時代にめぐり会った一オルグの思い出として、とどめるほかなかった。」と書いています。
私(著者)は岡映の「荊冠記」を読んで、城英子(安賀君子)がすぐれたオルグであったなぁ…との思いを深くしました。これはオルグとしての活動は短い期間ですが、女学校の高学年当時から兄秀三の工作を受け、左翼関係の雑誌や文章、基本文献など読まされ、勉強させられたことが素地となり、それが実践活動で大いに役だったものと思います。
また指導を受けている岡映は「私はどうしても共産党員になりないと思った。先輩たちの言うように、入党申込書がたとえ〈刑務所行きの帰り道のない片道切符〉を意味するとしても、それでも私は入党したかった」と書いています。
このような二人が信頼を高め、指導と被指導の立場から遠慮のない論議をたたかわせ、全協繊維の組織拡大と闘いの発展を期した時、一方的に突然連絡が切られたのですから、岡映にとっては只事ではなかったと思われます。
(つづく)
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