歴史を開いた青春
広高事件の岡本重康
島根県浜田市金城町の市立体育館のロビーにかすりの着物に袴姿の立像が建っている。昭和初期、戦争と弾圧の嵐のなか、反戦・平和と学園の民主化を求めてたたかい、二十八歳の若さで世を去った岡本重康の彫塑像である。地元の寺田哲郎氏(同盟島根県本部副会長)がその生涯を掘り起こし、彫刻家の岡堂義武氏が製作して町に寄贈したものである。
岩田義道突撃隊を組織
岡本重康は一九一二(明治45)年、島根県那賀郡波佐村(現・金城町)の旧家に生まれ、広島高校で多感な青春を反戦・平和、学園の民主化に燃やした。岡本が旧制広島高校に入学した一九三二、三年頃は、日本帝国主義が中国侵略を開始し、「満州事変」「上海事変」が起き、広島、呉は軍都として大陸侵略の前戦基地の役割を果たしていた。一方、日本共産党や共青、全協などが中国侵略反対をかかげてさまざまな活動を展開。宇品港に向けて行進する出征兵士の隊列にビラを投げ込んだり、タクシーから撒くなどの大胆な行動をおこなった。呉海軍工廠では工場新聞『唸るクレーン』が発行され、海軍のなかでも反戦・反軍を呼びかける共産党の細胞新聞『聳ゆるマスト』がひそかに配布されていた。広島高校でも学内民主化と反戦活動が活発化し、岡本らは自治学生会の中核分子で「岩田義道突撃隊」を組織。この名称は三二年に虐殺された「岩田義道の遺志を継いで決起しよう」というもので岡本が責任者となり、学内運動の行動綱領として自治学生会員の三倍化、「赤旗(せっき)」固定読者の三倍化、党への資金協力などを決めて取り組んだ。
広高生への弾圧
中国侵略の拡大という情勢のなかで弾圧も強まり、一九三〇年、三二年と広島地方でいっせい検挙があり、中国地方オルグだった錦織彦七(島根県出雲市出身)も熱海事件で逮捕された。岡本重康が検挙された「広高事件」は三三年、軍国主義的反動教授の追放、講義辞退の全学ストライキに対しておこなわれたもので、防弾衣に身をかためた武装警官百五十名が三十台の自動車に分乗し、四月二十六日未明を期して市内十七か所を急襲、広高生ら一〇八名を検挙するという大掛かりなものだった。この弾圧で岡本は治安維持法違反として懲役二年、執行猶予五年の判決を受けた。残忍な拷問が行われたことは言うまでもない。「小柄だが健康だった岡本が出獄後僅か五年の人生に終わったのも、このときの拷問と無関係ではないと思う」と寺田哲郎氏は述べている。広高を放校になった岡本はその後神戸方面で活動していたと思われるが、詳細は分かっていない。四〇年、病魔に侵されて浜田町に帰り、興仁会病院に入院したが、七月二十六日に結核性膀胱炎のため死去した。二十八歳だった。
反戦の彫塑像に
反戦・平和の学生運動に身をささげ、治安維持法で弾圧された岡本重康の業績をたたえる立像は岡堂義武氏(元日本共産党金城町議、同盟会員)によって製作され、党支部と同盟島根県本部の呼びかけで02年10月3日に除幕式が行われた。(本稿は寺田哲郎氏の著書『歴史を開いた青春』を編集部で要約したものです)
「不屈」 中央版 391号(2007年1月15日号)