「戦争は罪悪である」と訴えた
反戦僧侶 竹 中 彰 元
竹中彰元は、岐阜県不破郡垂井町岩手の真宗大谷派明泉寺の元住職。慶応三(一八六七)年に生まれ、敗戦の年一九四五(昭和二十)年十月二十一日に死去した。
71歳老師が出征兵士へ「反戦」の訴え
彼は一九三七(昭和十二)年、日本が日中戦争を始めた年の九月十五日、元岩手村から出征する数人の兵士を村民四百人程と、岩手小学校から垂井駅まで(約四キロ)見送る途中、垂井小学校の近くで前を行く好戦的で血気盛んな三十九歳のKに追いつき、七十一歳の老師は次のように反戦を訴えた。「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから止めたがよい。北支の方も中支の方も今占領している部分だけで止めた方がよい。決して国家として戦争は得なものではない。非常に損ばかりである。今度の予算を見給へ、非常に厖大なもので、二十億四千万円と云ふものは此の出征軍人が多数応召して銃後の産業に打撃を被り、其の上に徒に人馬を殺生する意味に於て殺人的予算だ。戦争は此の意味から止めた方が国家として賢明であると考へる。」(「特高外事月報、昭和十二年十二月分」〈内務省警保局編〉による)また十月十日、同じ岩手村の寺院の年季法要の席でも、六人の僧侶に「自分は侵略の様に考へる。徒に彼我の生命を奪い莫大な予算を費ひ人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない。戦争は最大の罪悪だ。(中国の)保定や天津を取ってどれだけの利益があるか、もう此処らで戦争は止めたがよかろう。」と述べたという。この言動が役場でも問題とされ警察の知るところとなり逮捕された。
当時は「挙国一致」が内閣総理大臣近衛文麿の名によって「内閣諭達」として出されている。宗教界もこの戦争に協力し、特に真宗大谷派は本山内に臨時奨義事務局を開設し慰問使を派遣し、また通牒を発して慰問袋を急募し、更に「生死を超える道――応召の人及び家族へ――」というパンフレットを発行した。また大谷派の著名な僧であった暁鳥敏は「万歳の交響楽」(一九三七年十二月発行)という冊子を自費出版し「私は万歳を称へて送る群衆と、万歳を称へ万歳を称へられて出征する将兵を見る時、悉皆成仏の世界を見、すべてが神の子である神国日本の輝く相を見るのであります」と記している。こういう時代背景の中で、彰元は前述の反戦言動を行ったのである。
陸軍刑法の流言飛語罪で禁錮四カ月
彰元は捕えられ、裁判にかけられ、禁錮四カ月、執行猶予三年の刑に処せられた。治安維持法ではなく、陸軍刑法の流言飛語罪と断定されたからである。この処分が出ると本山も彰元を「軽停班三年」に処した。しかし彰元は逮捕され、起訴され有罪判決が出されても自己の言動を変えることはなかった。家族にも「間違っていました」と言いなさいと言われたけれども。
今、安倍首相や石原東京都知事が現平和憲法を改悪し、第九条をなくそうと高言、イラクへ自衛隊派遣をした。このような今の日本の動きを見ると、彰元の言動が深く私達の胸をうつ。忘れがたい。
私たちは岐阜県宗教者平和の会は、昨年十月二十一日、彰元の命日に「第七回彰元忌の集い」を明泉寺で開き、彼を顕彰してきた。
(岐阜県宗教者平和の会会長広瀬顕雄)
2007年4月15日 『不屈』 中央版 №394