戦争反対と漁業民主化に生涯をかけた
藤田晃三郎
藤田晃三郎は、1911年(明治44)熊野灘に面した三重県桂城村(かつらぎむら)島勝浦(現紀北町海山区)で漁師の長男に生まれた。尋常小学校を卒業して東京で書店や印刷工見習いとして働いていた。
昭和恐慌という未曾有の不況の中、賃下げや解雇反対ストなどを闘って検挙されたが釈放後、名古屋に移り「砲兵工廠」や「愛知時計」で働き無産青年同盟に加入した。
1929年4月16日、「反戦」活動で再び逮捕、保釈後三菱航空機名古屋製作所、市電などでガリ版刷「赤旗」や共産青年同盟機関紙「レーニン青年」や日本労働組合全国協議会(全協)「労働新聞」などの配布や組織拡大で活動した。満州事変・中国侵略戦争反対を訴えた労働新聞号外(1931年/昭和6年9月23日)配布などで1931年12月、治安維持法違反で逮捕され、「特高」から鉛筆による指詰めや膝裏へ木刀を挟む正座、木刀殴打の凶暴な拷問を受けた。
当時の「名古屋新聞」(現「中日新聞」前身)は「名古屋に躍る赤化分子の魔手」藤田ら「大物五名起訴」と大見出しの号外(1933年8月21日)を発行した。「特高」の狙いは市民を恐怖に陥れ、共産主義思想や運動の取り締まりで言論集会結社の自由を迫害し、国民の知る権利を弾圧することにあった。「赤旗」や「レーニン青年」などを「所持し読むことが犯罪」と弾圧された時代、藤田は「階級意識が高まると共に熾烈な闘争心をかり立てられた」と日誌(1936年1月26日)で語っている。
三重県では、小作農民と地主の小作料をめぐる闘いは熾烈を極め、「土地を働く農民へ」のスローガンは水平社運動と連携して農民組合結成をうながし、経済恐慌下で大衆闘争・政治闘争が河合秀夫(労働農民党第1回普選2区立候補)らの援助でいっそう高揚したが、「特高警察」は弾圧体制をさらに強化した。
「3・15事件」で松阪署は共産党員を中心に検挙したが、容疑はいずれも「共産党に加入」あるいは「赤旗」配布などであった。天皇即位にともなう伊勢神宮参詣の「予備検束」で、1928年10月27日松阪署に逮捕、たらいまわしされて津警察署の「留置場」内で獄死した全国農民組合三重県連常任書記の大澤茂らがいる。
戦後、藤田は1945年10月25日、党再建のための会合や1946年1月には、日本共産党三重地方委員会の結成に参画し、熊野灘沿岸の党員拡大と漁村細胞を組織した。
1949年7月1日、島勝漁業協同組合の設立発起人として参加、専務理事に就任して漁民や組合員の経営とくらしを守って闘った。
新たに制定された漁業法は、漁業調整機構の他に「漁業の民主化を図る」ことが目的(他の法律に類例がない「民主化」)に組み入れられた。水産業協同組合法の制定問題では党の民主的な政策提言で闘い、また、「漁民の生きる道」(「党活動」叢書2)の発行に寄与した。
党牟婁地区委員会の再生・組織強化に貢献し、島勝浦四三六世帯中「赤旗」読者比は176世帯(1975年12月5日現在)で、40 ・1%まで高めた。藤田は、1962年12月、海山町議会議員に当選し住民のくらしを守って四期町議を務めた。熊野灘漁場を破壊する「原発」立地反対運動では漁業者を結集し、その先頭に立ち、建設を許していない。
1999年1月2日没。享年87 歳。(山下正行記)
不屈中央版 403号 2008年1月15日